1952-11-13 第15回国会 衆議院 法務委員会 第3号
○田嶋委員長 これにて下田條約局長の説明は終りました。 発言の通告がありますから、順次これを許します。法務大臣、外務大臣はまだ出席されておりませんが、いずれ出席されることと思います。松岡松平君。
○田嶋委員長 これにて下田條約局長の説明は終りました。 発言の通告がありますから、順次これを許します。法務大臣、外務大臣はまだ出席されておりませんが、いずれ出席されることと思います。松岡松平君。
大体先ほどの下田條約局長とやらの話によつても、最近のことらしいが、オランダ兵の例を引けば、オランダの飛行場で老婆と泣き別れして、飛行機で送られて来ているオランダ兵がおる。
○佐々木(盛)委員 しからば今度の平和條約の第一條にある戰争状態の終了ということは、台湾、澎湖島のみならず、中国全土との間にも、法律上は効力が生じて来るという昨日の参議院における下田條約局長の答弁は、私はただいまの論理から推して行つて、まことに正しい結論であると考えますが、政府のこれに対する見解をあらためて承つておきたいと思います。
そういうわけで、世界的にも前例がないのみならず、日本の国の歴史を見ても、安政年間の下田條約、あれに比較してみましても、おそらく領事裁判権の條約に比較してみましても、これははるかに国辱的なるひどい行政協定であることは、私が今ここで喋々を要しないので、それに基いての本法案における手続規定でありますから、まつたく目も当てられない状態になつている。
従つて、かつてわれわれが安政の下田條約のころですら認められていた日本の国の当然の利益を守るための正当防衛であるとか、召還要求、退去、追放命令あるいは公使の暴行に対する自衛の権利、こういうような、すでに国民が当然持つている自衛の権利というものは、この裁判管轄権問題のいかんにかかわらず持つのかどうか。
殊にお話の一八五五年の下田條約におきまして択捉と得撫の境が境になつて、国後、択捉というものは従来から全然日本の領土ということに対する疑義を国際間にさしはさんだことはないのであります。ただそれ以北においてロシア人と日本人が一緒におりました状態で、ここではつきり境目をいたしたのでありますが、一八七五年のいわゆる千島、樺太交換條約によりまして全千島は日本の領土になり、樺太をロシアに讓つたのであります。
国際外交上におきましてのこのクリルアイランズの問題は、あの安政の下田條約、或いは神奈川條約と申しまするか、その際の日露の国境を設定した際におきましては、択捉島と得撫島のあの水道を日本とロシアとの国境とする。こういうようにきめられております。從つて択捉及び国後はこれは当然日本のものでありまして、問題になつておらないのであります。
○草葉政府委員 ただいま申し上げましたように、これらのいわゆる南千島というのは、全然従来から問題がなかつたのでありまするから、従つて一八五四年のいわゆる下田條約におきましても、何ら問題がない。
歴史上から考えまして、下田條約、あるいは千島・樺太交換條約等におきましても、十分両方とも了解の上に、はつきりと領土が決定いたしましたのが、お話の千島である次第であります。
安政年間におきます一八五四年の下田條約におきましても、全然これは問題にならなかつたところであります。従つて従来ともはつきりした日本領土であるということは、日本はもちろん、諸外国いずれの国もこれに対して異論はなかつたのであります。
国際條約上に現われました千島の歴史は、安政元年、すなわち一八五四年の日露和親條約ーー神奈川條約ともいわれ、また下田條約ともいわれているのでありますがその規定におきましては、こう書いてあります。今より後、日本とロシヤとの境、すなわちエトロフ島とウルツプ島の間にあるべきものであつて、エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、それより以北のクリール諸島はロシヤに属すると書いてあります。
〔專門員朗読〕 陳情書第八二七号南千島及び歯舞諸島の復帰に関する陳情 陳情書害東京都港区芝西久保巴町三十五番地全国町村会館内全国町村議会議長会長、齋藤邦雄、エトロフ島以南の歯舞諸島を含む島々は、わが国の過去の歴史的事実と、下田條約及び千島、樺太、交換條約等の国際條約において、すでに日本領土であることを明確に規定しているので、これが復帰の要請は何らポツダム宣言の趣旨に抵触するものでないから、これら
その間、同寺院において下田條約が締結され、日米国交に寄與するところ多く、史蹟として多がの価値を有している。ついては同書を史蹟に指定されたいというのであります。しかるべく御審議の上、御採択をお介いいたします。
そうなりますと、先ほど申し上げました千島・樺太交換條約の第二條にはクリル全島、こういうことになつておりまして、それはいわゆる下田條約による千島水道以北であるということは、はつきりするのであります。従つてその千島水道以南のエトロフ、クナシリ——シコタン、ハボマイはもちろんでありますが、これはは当然含まれない。こういう解釈が明らかになるのでありますが、その点いま一応御答弁願います。
○浦口委員 私の承知するところでは、北千島、南千島というのはいわゆる下田條約と千島・樺太交換條約、この二つの條約によつてこういう俗称が出たと考えておりますので、公文書の上では南千島、北千島の差はないというふうに承知いたしておりますが、何かそういう公文書の上で明示されたものがあるならば、お知らせ願いたい。
○浦口委員 そうしますと、もう一度話が元へ返るようになるのでありますが、実は下田條約では、今より後日本国とロシヤ国との境は、エトロフ島とウルツプ島との間にあるべしという一條があるわけです。これによつて條約上初めて日本とロシアの境がきまつたわけです。
すなわち千島列島中のエトロフ、クナシリ、シコタン、ハボマイの諸島は過去三百年来日本の領土であつて、安政年間の下田條約におきましても、「今より後日本国とロシアとの境は、エトロフとウルツプ島との間に在るべし」というようなことが明記されているのであります。また明治八年の條約におきましても、エトロフ水道以東の千島諸島が樺太と交換に日本の領域となつたのであります。